ＢＧＭ（フレーム表示）付で見たい方はこちら（既に表示されている方は関係ありません）。

アウグスト・エファーディング

「カール・ベーム」１９８３年、新潮社刊より

訳：高辻知義

カール・ベームに讃辞を呈する役目は決して有難いものではありません。年来ベームの誕生日毎に讃えるべきことは総て書かれ、言われてしまいました。私は何をなすべきでしょうか。無知を装って、言い古された事を繰り返す事は出来ません。私はザルツブルクにいて、市が、州が、オーケストラが、歌手や演出家や劇場監督がベームに敬意を表し、グスタフ・ゼルナーが祝辞を述べる場にも居合わせました。聴衆もいたではないかと仰るのですか。ウィーン、ニューヨーク、ハンブルクとミュンヘンで祝辞を述べる羽目になった､この私は聴衆の敬意と賛成を伝える歓呼の声を聞きました。実地の体験ではありませんでしたが、遥かに伝えられたのは、日本での圧倒的な感激でした。１００人もの女子生徒がベームを見ようと彼の列車に殺到しました。無論私達は、反復が音楽家にとっては単なる繰り返しではない事を知っています。殊に、モーツァルトを反復する事でその都度祝祭を造り出すベーム、オペラを繰り返すのではなく、何時も新たに捉え直すベームの様な人間の場合は尚更です。産科医に祝辞を呈するにあたって、この医師が何時も子供ばかりを取り上げてきた事を讃えるのに恥ずかしがる人はいませんし、今度はもっと違ったものをこの世に送り出せと促す気にもなれないでしょう。ベーム博士も、モーツァルト、ベートーヴェン、シュトラウスという名を父に持つ、何時も変わらぬ子達をこの世の光の下に連れ出しますが、この子達には決して泣かず、何時も美しく歌うという測り知れない長所があります。彼らが歌うのは何時も同じ楽譜なのに、何時も違って聴こえるのです。だが、これこそはこの産科医の秘密なのです。アウフタクトで永く待ってはなりません。陣痛が最高潮に達した時が、本番なのです。臍の緒は素早く切り取らねばならず、赤ん坊のお尻叩き、これこそ正しい一瞬にやれば、赤ん坊は泣き声を…失礼、歓呼の声をあげます。ベームはこうしてミューズの子達をこの世の光の下に送り出してきました。しかし、この世のその光が何と変化してきた事でしょう。だが、時流が激動し、政治と経済の情勢が変わっても、ベームにあって変化しないものがあります…テンポがそれです。フリッツ・コルトナーはよく嘲って言いました。「テンポとは、間違いを矢継早にしでかして、それと気付かせない事」だと。…テンポと言って速度計を連想する人間はベームと協演してはいけません。彼のメトロノームを駆動しているのは目覚めた分別とこころです。ベームのこころはオーストリア人のこころですが、それが「小心」になった事は一度もありません。彼は総てのオペラにテンポを発見し、大抵はそれがそのオペラのテンポそのものになりました。ベームが生涯殆どテンポを変えなかった事は驚くべき事です。変えたとしても（見事な異名同音の読みかえの様に）、せいぜいのところ、年を取るにつれて幾分速くなったという事でしょう。他の指揮者達が老年の様式とやらを繰り広げ、次第にテンポを落とし、鈍重さが老年の叡智に変わる頃、老境のベームは、若年には見られなかった緊張を初めて音楽の中に発見したのです。彼以外なら若い偶像破壊者に似つかわしい様な大胆な唐突さが現れたのです。ベームは気が短くなり、常識的予想とは裏腹に、若い人々の側に立ちます。彼は若い演出家や舞台装置家のアイディアを擁護し、彼らの味方になり、時には「お高い」劇場当局とやり合う事もあります。 ……ドイツ演劇の世界では今フリッツ・コルトナーの遅ればせの名誉回復が行われています。戦後コルトナーは改めて古典劇作品を正確に問い直す作業を始めました。彼は言葉の一つ一つを捉えてその腹を裂き、その中核に潜む美しさと醜悪さを取り出し、明らかにしました。これは今では、ある人々にとっては常識的作業になっています。ベームの行っているのも問う作業です。流行の言い方をするなら、事の背後をたずね、測鉛を下ろす作業ですが、彼が深追いして結果を台無しにする事はありません。彼が立ち止まるのは、瞬間を更に美しく見せる為です。彼には一つの長所があります。「二次的長所」に過ぎないと言われながら、実は私達の多くが失くしてしまっている長所、つまり正確という長所です。偉大さとは､多くの正確な細部が集まって出来るものです。 しかし､この偉大な音楽家は誰を相手としているのでしょうか。ある時散歩の道すがら、ベームはこう言ったと伝えられています。「天国でベートーヴェンに会ったら、帽子を目深にかぶって通り過ぎよう。やって来たのがモーツァルトだったら、私はひざまずいて、何も言えないだろう」と。ベームのこの夢想を耳にして、私にも願いが出来ました。ベームとモーツァルトが専門の話を始めて、一緒に最新の『フィガロ』の録音テープを聴く事になったら、その場に居合わせたいと思うのです。モーツァルトはどう言うでしょうか。「大変結構、だが速過ぎます」とか「遅過ぎます」とか。モーツァルトならそうは言いますまい。「尊敬するベーム博士（モーツァルトもオーストリア人でした）、僕は頭がこんがらがっていますよ。僕の演奏は一寸違って聴こえるのです。だが、これも僕の音楽ですよ。これはモーツァルトです」。小声で、考え深げにモーツァルトは付け加えます、「僕が嘗ての僕以上のものになっている箇所だって幾つもありますよ」と。 カール・ベームが最初のアインザッツを与える直前のオーケストラの姿勢、緊張が他の多くの指揮者の場合とこんなにも違うのは何故か、私はよく自問しました。ベームといえども愛想よく楽しげに指揮台に近づきます。更に一寸した元気付けの言葉、時には微笑がこぼれます。しかし彼が上に立つと、あらゆる日常的なもの、逸話的なものは突然消え落ちます。集中した、真剣な印象を与える、というだけではないのです。いや、他の指揮者なら熱中が、愛想のよさが、軍隊的な訓練が始まる時に、私は台上に、これ迄私の出会った事のない人物を見るのです。あなたは誰ですか、と訊ねたいところです。それは、レコードのジャケット写真から微笑している指揮台のスター、氷の様に冷たくなった手をして公演の後ぎこちなく答礼しているオーストリアの音楽総監督ではありません。それは（この民主的な芸術経営の時代に、口にするのを憚る気持ちが私にはありますが）人を不安に陥れる人間です。不安といっても、ボスの与える様な不安ではありません。嵐に対する不安、うまく屋根の下に走り込めるかという不安です。最初のサイン、正確ではあるが小さい最初の一撃を正確に理解出来るかという不安です。そこに立っているのは祭司ではなく、自分の手で何を作り、齎すかを心得た、有能な職人です。黒幕ではなく、自ら手を下す事が出来る人間です。『レオノーレ第三番』の序曲でベームが一度一寸立ち上がるだけで、未曾有の成果がオーケストラに現れます。他の指揮者なら大わらわの、風車の様な身振りが必要な所で、この男がフロックコートの裾を持ち上げるだけで、ジェリコのラッパの裁きが始まるのです。この同じベームが最も優しい父親にもなり、にわか修業の掛持ちの父親達には不可能な程に、子供である楽員達に優しく対します。彼はごく小さな事にも喜びますが、反応が小さい（小さ過ぎる）事も敏感に気付きます。まだ一つしか歌劇を演出しておらず、ワーグナーは未経験な若い演劇の演出家が、自分と組んでウィーン国立歌劇場で『トリスタン』をやる事になっても、このカール・ベームは拒否しません。彼は手を貸します。歌手が皆舞台の前縁に出て歌う事を要求しません。現代的演出の行き過ぎがあるとニヤッとしますが、若い演出家の努力を否認する事はないのです。悪口を言うのは大好きなのです、このベーム博士は。そもそも毒舌家カール・クラウスの街ウィーンに住んで、永く悪口を浴びせかけられずに済む筈がありません。ベームの振った最新の『後宮からの逃走』の初日の直前に、身震いしながら、おずおずと一人の演出家がベームに切り出しました。ただある理由から、それも実験として、駄目なら二度としないから、第三幕の拷問のアリアを動かす事は出来ないだろうか、と。カール・ベームの答えはどうだったでしょうか。「舞台とドラマトゥルギーに合うのなら、喜んでやりましょう」。これこそ歌劇の定義です。ベームに相応しい看板があるとしたら、そこにはこう書かねばなりますまい。 意味のある行為 最晩年のベームがバイエルン国立歌劇場で行ったモーツァルトの歌劇『後宮からの逃走』の公演は、当時大変な評判を呼び、テレビでも放映された。それはユニテルによってビデオ化、ＬＤ化され、外盤ながらＤＶＤも入手する事が出来る。最晩年のベームの姿を伝える貴重な映像であるばかりでなく、アライザ、グリスト、タルヴェラ、そして何と言ってもグルベローヴァの歌唱と演技が収録されている、正にオペラ好きにはたまらない内容となっている。この公演で演出を担当しているのが当時売り出し中だったエファーディングである。その時の逸話が最後に語られている。